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〜 那須の祭り 九尾伝説の“御神火祭 (ごじんかまつり)”に酔う〜
那須高原での楽しみのひとつに地元の祭りがある。四季を通して色々な祭りやイベントが、この那須町を舞台に繰り広げられる。それらに機会ある毎に参加する楽しみは、ここで暮らす醍 醐味のひとつでもある。那須の祭りで代表的なものは、毎年5月の最終土曜日に那須湯本の殺生石の前で繰り広げられる『九尾伝説』のお祭り“御神火祭”である。那須の祭りの中でも最大にして最高の盛り上がりを見せる“御神火祭”は、多くの観光客を集める一大イベントとなっている。都会のつくられた祭りとはちがった、素朴で幻想的かつ勇壮なこの祭りは、一見の価値のある祭りと言える。
2007年の今年は半月の美しい5月26日(土)午後8時から行われた。祭りの始まりは語り部 の井上二美子さんが岩の上に腰掛けた奏者の笛の音を交えて那須に伝わる伝説*「九尾狐」。やがて温泉神社から続く山腹の参道に多数の松明の灯かりが見え始め、殺生石へと向かってくる姿が見える。これは那須温泉(ゆぜん)神社からキツネの面をつけ松明(たいまつ)をかかげた150名の白装束の氏子の行列である。この行列が見え始めると祭りへの期待感がさらに高まる。殺生石前の舞台は自然の地形をそのまま利用する形で設けられ、観客もそこに転がっている大小さ まざまな石に腰掛けたり、木道の縁に止まり木のようにして並んで座ったりと、思い思いに好みの場所でこの神秘的なドラマを見つめている。150名の氏子の松明の火が、大松明に移されると炎はまたたくまに天へと立ち上がる。まるで生き物がうごめくかのような恐ろしい炎の動きに合わせて、白装束に白面金毛で身を包んだ若者の「九尾狐太鼓」が始まる。刻々と変化し燃え続ける大松明の炎の前で鳴り響く「九尾狐太鼓」は、地響きのように地面に伝わり、また回りを取り囲む山に反響した音とともに奏者と観客を ひとつの荘厳なドラマの中に引き込んでしまう。あまりにも激しい九尾狐の動きと太鼓の音、そして燃え盛る炎の動きがすべての人の心と目をしばし奪い、俗世間のすべてのことを忘れさせ九尾狐伝説の世界へと引きずり込んでしまう。30数分間の何とも言えない素晴らしい演奏とドラマが終わると、一瞬の空白を置いて会場は感動の拍手で包まれた。こんなにも素晴らしい音と炎と、そして不思議な狐の世界に、集まった観客は誰しも心を奪われ、それが感動の渦となって祭りの終焉を迎えていた。那須に来たらぜひこの“御神火祭り”は見る価値のある祭り である。都会では決して演出できない自然のステージが、この祭りを組み立てている。真っ暗な空に輝く月、そして満天の星、そよそよと心地良く吹く風に、地面から湧き上がってくる硫黄の臭い、その臭気に包まれたゴツゴツとした岩・石、それらすべてがこの祭りを構成し、また盛り上げる要素となっている。那須高原に住むなら、やはり一度は見るべき祭りであり、可能なら氏子として参加したい祭りである。
*≪九尾狐伝説≫=数千年前、天と地が分かれたころ、濁った邪悪な陰気が集まり一匹の妖狐が生まれた。紀元前千百年ころ、この妖狐は絶世の美女、姐己となって殷の国の紂王をたぶらかし、この王朝を滅亡に至らしめた。紀元前三百年ころ、妖狐は、今度はマダカ国(現在のインド)に現れ、斑足太子の華陽婦人に化け、この国を滅ぼしていった。8世紀妖狐は女の子に化け、遣唐使が日本に帰国する船に乗り込み日本に上陸し、それから約三百年後の平安末期に静かにしていたが幼児に化け、武士に拾われることとなった。藻女と名づけられ才色兼備の女性となり、側目として宮中に仕え、鳥羽上皇の寵愛を受けた。妖狐は名を「玉藻の前」に改められ、その襲名の宴から宮廷を混乱させた。「玉藻の前」は陰陽師の安倍泰成に妖狐と見破られ、“白面金毛九尾狐”と姿を変えて那須野が原に追いやられていった。しかし、その後も“九尾狐”は怨念で宮廷を苦しめていたため、朝廷より三浦介、上総介に妖狐の討伐の命令が出され那須野が原にて討ち取られることとなる。“九尾狐”の怨念は大きな石になり、毒気を出して周囲に近寄る生き物を殺したので、人々はこの石を「殺生石」と呼ぶようになった。その後安倍泰成と那須の名僧源翁和尚の教化により魂を鎮め、祈祷とともに殺生石を打ち砕き、平穏なときが訪れることになった。その時、石は三つに割れ、その一つが現在の『殺生石』として残っていると言われる。
by 大貴智
*2008年は5月24日(土)開催です、詳しい案内はこちらでご確認ください
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